かつての技術立国?日本がイノベーションで後れをとるようになった。研究者数も論文数も減り、国際競争力は低下する一方だ。背景には科学技術イノベーションの基盤となる人材の不足、特に博士課程へ進む学生の減少がある。
2022年に始動した「神戸みらい博士育成道場」は、小?中学生を対象に探究心を引き出す学びを展開。日本の次世代博士人材に必要な「未来を描く力」や「未来を切り拓く力」を育てている。
文部科学省科学技術?学術審議会の資料によれば、日本以外の主要国(米、独、仏、英、中、韓)で博士号取得者は右肩上がりに増えている。日本だけが減少?横ばい傾向。国は科学研究に対する高校生の意欲を育む施策を進めるが、より早い段階から育成に取り組む必要性が指摘される。「神戸みらい博士育成道場」のコーディネーターを務める蛯名邦禎名誉教授は「サイエンスに取り組んだり、研究者や起業家になったりする精神は、大学に入って突然生まれるものではなく、幼少期から養っていく必要があります」と指摘する。
小学生ごろまでの子どもたちは、さまざまなことに疑問を持つ。ただ、進学とともに楽しかった“学び”は入試を目標とした“勉強”に変わり、アクティブな思考が失われる。近年、文科省が学習指導要領で必修にした「探究活動」は、自ら課題を設定する力を強く求める。「いろんなことに関心や疑問を持ち、日頃から表明する習慣がなければ、課題設定はできません」。
そこで2022年に立ち上げたのが、小学5年生から中学3年生までを対象にした「神戸みらい博士育成道場」だ。神戸大学は2017年から高校生を主な対象とした人材育成プログラム「ROOT」を実施している。科学分野で強い好奇心や探求心を持つ高校生らの力を伸ばし、世界で活躍する科学者や技術者を育てるのがROOTの目的。道場はより早い段階で子どもたちの科学的視野を広げる。これらは特別選抜や大学と高校、小中学校との連携などを網羅的に扱う「みらい開拓人材育成センター」が運営しており、大学が関与する効果的な科学教育の枠組みが注目を集めている。
一つの世界を見るさまざまな視点
「好奇心を発揮させ、問いを出せる子を育てる」―。神戸みらい博士育成道場は一般的なサイエンス教室や体験授業とは異なる。「経験を自分の中に定着させ、世界観をつくるところまでを目指します」と蛯名名誉教授。受講生は化石発掘や顕微鏡観察などさまざまな分野を体験する。「実はそれらの間につながりがあって、一つの世界をいろいろな視点から見ているだけなんだということを感じ取ってほしい」とプログラムの狙いを明かす。
天体観測で宇宙の広さを知り、大型放射光施設「SPring-8(兵庫県佐用町)」でミクロの世界を見る。自然の広がり、そして空間的、時間的な奥行きを体感する。美術鑑賞?制作にも取り組み、「収束思考」と「拡散思考」という研究に必要な対極的な思考を養い、実験科学のプロセスを体験する。見えている現象の背後にある法則に想像をめぐらし、仮説を立て、それを実現する。
第一段階は40人のセッション。この中から選抜された10人が、第二段階ではより高度な課題に取り組む。受講生が提案する課題は研究者には思いつかないようなものばかりだ。経験を経て、受講生には大きな変化が現れる。「さまざまなことを見聞きし、広い視野で価値判断できるようになれば、課題の重要性を理解できるようになります」。さらには“失敗”も学ぶ。「研究は“結論”というゴールまで一直線につながっているわけではありません。試行錯誤を体験し、難しい状況でも意気消沈しない、失敗してもいいというメンタリティも育てたいと考えています」。
科学と向き合うために
道場では三つのことを重視する。まず「本物に触れること」。SPring-8や理化学研究所のスーパーコンピューター「富岳(神戸市)」など兵庫県特有の“本物”がある場所を訪れる。次に「専門家との直接対話」。知識を持つ人に単に教えてもらうのではなく、実際の科学者がどう考え、どんなふうに表現するかを知ってもらう。三つ目は「切磋琢磨」だ。毎回、振り返りと分かち合いのセッションを持ち、疑問を出し合い、ディスカッションする。これが“道場”と名付けたゆえんで、受講生同士の相互作用を期待する。
こうした背景には蛯名名誉教授自身の経験がある。中学から陸上にのめり込んだ蛯名名誉教授。走り込むだけではなく、自身のフォームを撮影しながら、よりスピードが出る走り方の仮説実証を繰り返した。高校時代には陸上の教本を書いた大学教授に手紙を出し、実際に会いにも行った。そこで「研究室」という職場、「研究者」という職業の存在を知った。「それまで大学は高校の延長。単に勉強するところだと思っていました」。この出会いが研究の道に興味を持つきっかけになった。
一方、道場のプログラムでは子どもたちに付き添う学生メンターが果たす役割も大きい。議論を導き、受講生同士の対話が弾むよう促す。こうした技量はアカデミックな活動をする上で重要であり、また受講生の疑問に触れることは学生自身の刺激にもなっているという。
科学の理解者が科学を支える
この道場はどんな未来をつくるだろう。蛯名名誉教授の心には学生時代にプロ指揮者、山岡重信氏と交わした言葉が残る。「なぜアマチュアの練習に来てくれるのか」という問いに、山岡氏は「音楽を深く理解できる聴衆を育てている。私たちの活動は聴衆に支えられるのだから」と答えた。これと同じだ。科学を理解する人が増えれば、研究者が打ち込める環境は維持される。「自分で調べ、考え、学術論文さえも読めるような人を増やしたい。この人たちにサイエンスは支えられます。受講生が研究を志してくれれば、うれしいですが、たとえ研究者にならなくても、本格的なサイエンスリテラシーを持つ人が増えてくれればありがたい」と、蛯名名誉教授は笑顔を見せる。
“本物”の研究者にも驚きや気づき
農学研究科 池田 健一 准教授:
ある企業の回転焼きがなぜ美味しいかを第二段階の課題に挙げた受講生がいました。面白い着眼点です。工程を想像しながら、顕微鏡で断面を調べたり、元素分析したり。第一段階の多様な経験で知ったさまざまな解析のアプローチが活かされ、研究として成立していることに感心しました。
人間発達環境学研究科 勅使河原 君江 准教授:
抽象画の鑑賞後に作者と同じ手法で絵を描くセッションで、多くの受講生から自分の描いた作品の現物を持ち帰りたいという申し出がありました。今の子どもたちはデータ世代だと思っていましたが、作品への思い入れや愛着はいつの子どもたちも変わるものではないと気づかされました。
蛯名 邦禎 名誉教授 略歴
えびな?くによし 名誉教授、神戸みらい博士育成道場コーディネーター
1982年大阪大学大学院基礎工学研究科後期課程修了。2000年神戸大学発達科学部教授。専門は環境物理学から科学教育まで多岐にわたる。2017年名誉教授。ケガがなければ、陸上選手としてオリンピックに出場していた(はず)、と笑う。
広報誌「風」
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