小代薫特命講師

国際港湾都市?神戸は、明治時代の開港から150年以上の街の歴史を重ねる。海岸沿いに広がるかつての外国人居留地は返還当時、東洋一美しい街と讃えられたという。大阪?関西万博が開催される2025年春には、神戸空港から国際チャーター便の就航が相次ぎ、世界とのつながりがさらに広がり深まる。近代建築の歴史、近代都市史を専門とし、神戸を研究フィールドに街歩きイベントを重ねる計算社会科学研究センター?経済経営研究所の小代薫特命講師に、神戸の街の成り立ち、点在する建築物の歴史、神戸のこれからについて聞いた。

 

イギリス最大の輸出品は都市

神戸はなぜ、ここまでハイカラな街になったのでしょうか。

小代特命講師:

ハイカラというのは、西洋と日本の文化が一緒になっているということです。イギリスの最大の輸出品は都市だったと言われ、イギリスがかつての植民地時代に近代都市を世界中に広めました。神戸もその都市の一つです。極東に位置したので、ヨーロッパから見ると最後の都市づくりだったわけで、他の都市での実績が、失敗例を含め全て反映されています。明治時代は、まだ市民革命の熱が冷めやらぬ時代でした。まだ見ぬ民主的なコミュニティーを成功させなくては、と大いなる社会実験をしているような気概で、皆が力を合わせている様子が伝わってきます。貿易商人たちの市民主導の街づくり、コミュニティーづくりが神戸居留地では盛んだったのです。

約30年間の居留地時代には、自治組織も良好に維持されました。当時の県知事や各国領事、民間議員で構成する「居留地会議」が、街づくりを協議しました。日本のどこにも前例のなかったユニークな取り組みでした。

当時の自治組織の議事録が、毎月新聞紙上に公開され、市民から意見があれば投書が寄せられました。議論を必要とする案件が出てくれば、新聞紙上で取り上げ、メディアを介して市民を巻き込みながら街づくりが進みました。当時の新聞には、溝の蓋が壊れて危険なことを周知徹底したり、街路樹を植えた直後には山羊の放し飼いをしないよう市民に警告したりする記事があり、メディアを使った街づくりが積極的に行われたことが、最終的に美しい街になった一つの要因だったと思います。結果的に多様な協力を得て、それが大きな力になったのです。

大正時代になると、総合商社「鈴木商店」に代表される会社が神戸を中心に興って、中四国から労働者が集まりました。東京に次ぐ人口密度になり、人口増加率が日本一の時代もありました。その後、1923年に関東大震災が発生、多くの企業が本社を神戸に移し街は賑わいました。日本の貿易の中心地となり、商船三井ビルディングなど日本で最初のオフィスビルが建ち並びました。当時の超高層と言われたビルが、旧居留地の顔になっていきます。「過密の制御」という問題が起きましたが、都市計画が東京に次いで作られ、三宮を中心に定めて計画的な街づくりが行われたのも、ハイカラで美しい街になった要因と言えるでしょう。

昭和時代には、「山、海へ行く」と言われる時代に入り、須磨区?西区などの宅地造成と合わせて削り取った砂でポートアイランドなどが埋め立てられ、「株式会社神戸市」と称されるような活発な都市開発が行われます。1980年代は、かつて盛んだった重工業が下火になり、ファッション業界が盛り上がります。「ファッション都市」「国際情報都市」と言われて、神戸ハーバーランドや歴史建築が注目され、お洒落な街のイメージに変わってきました。

旧居留地から学んだ発想

神戸の住民は、外国人から何を学んだのでしょう。

小代特命講師:

神戸には今も、当時の欧米的な市民社会の心意気が受け継がれています。旧居留地に根付いた外国人の市民社会の気風が、神戸の市民にも入っているのではないでしょうか。古い習慣や規範にとらわれず、どんどん新しいことをやる気風が感じられます。

貿易の舞台となった商業地の居留地は海岸沿いに広がり、かたや今の異人館街が残る北野など山手は、外国人の居住地になりました。横浜が「居留地は日本の中の外国」ということで完全に分離し、外国人と市民が交流することが全くなかったのとは対照的に、神戸?北野は「雑居地」であったため、外国人と住民が隣り合わせに住み、古くから交流していました。混沌とした時代に日本の国土内に外国人が最初に入った都市です。

神戸発で始まったことで言うと、現在レストランになっている「旧神戸居留地十五番館」は、重要文化財の商用利用第1号になっています。1880年、外国人が最初に入ってきて建設した木造の商館で、今でもそのままの格好で残っているのは、全国でも神戸だけです。「使わないと意味がない」というオーナーの意向で、重文の建物内で火を使うレストランを併設したのは、完全に民間の発想です。

この他にも、民間のセンスが、今でも多く見られます。異人館ブームで偽物の異人館が数多く建設された際に、「歴史遺産」というブランド看板を掲げるようになったのも、神戸が発祥と言われています。道路脇に置いてある植物の鉢植えが車の運転手からは見えないという理由から、街灯の上に吊り上げた発想は、日本の中でも先駆けて取り入れたものでした。今後も、新しいものを取り入れる気風を残してほしいと思います。

神戸発の公園文化、地方自治

外国人が情熱を注いだもので今も残っているもの、全国に広がったものがあれば。

小代特命講師:

旧神戸居留地十五番館のほか、注目する建築物は、英国の建築家A?N?ハンセル氏が1896年に設計?建造した自邸、今の異人館の洋館「シュウエケ邸」です。ハンセル氏は、イギリス王室も認める建築家で神戸を舞台に活躍しました。棟にシャチホコを載せたり、軒先に菊の御紋を付けたり、入口のポーチの辺りに反りのある屋根を付けたり、英国の建築様式を基調としながら、日本をはじめ、さまざまな国の影響が見られます。建築家の実験のようで面白いですね。

明治初期の煉瓦造りの下水管が、十五番館の前に残っているのも興味深いです。当時、神戸にやってきたのは若い技師が多かったので、技師としての経験が浅く、教科書に忠実に煉瓦を製作しています。そのことが功を奏し、現在も崩れることなく残り使われています。外国人の熱のこもった当時の仕事を見ることができます。

街歩きイベントで、明治時代の煉瓦の下水管を解説する小代薫特命講師(中央奥)=神戸市内(NPO法人 Unknown Kobe提供)

このほか当時の神戸から全国に発信されたものとして、「公園」という概念がありました。明治時代、公園と名付けられた土地は、まだ日本にはありませんでした。開港に伴って神戸に住むようになった外国人には30代の若い貿易商人が多く、クリケットができるグラウンドを雑居地に作るよう要求したことがきっかけになりました。当時の兵庫県はその要求を認めず、外国人は各国の領事、さらには東京にいる公使に圧力をかけ、その声が外務省の耳に届くことになります。神戸の布引遊園地や、居留地近くの東遊園地をめぐる一連の折衝が、1873年に定められた公園に関する太政官布達へと結びついていきます。

明治初期の都市関連制度は、まず神戸で実験的に施行されたものが多くありました。地租改正や地方自治、民間による都市開発につながる動きは、まず神戸の雑居地で試されて広がりました。市民から意見を積み上げていく手法は、西洋の市民社会の影響があります。これらを主導したのは、当時の兵庫県令(知事)の神田孝平でした。幕末の蘭学者であり、自由主義経済学者でもあった神田は、単にヨーロッパ文化の模倣ではなく、その概念まで深く理解していたようです。

街の来歴をどう未来に残すのか

もともとは、どういう研究をしてきましたか。

小代特命講師:

寺社仏閣や異人館の文化財保護、東京駅など近代建築の歴史を扱う分野を研究領域にしてきました。私の大学時代当時の研究の風潮として、建築ばかりでなく都市丸ごと考えようと、「都市史」という新しい学問分野が誕生し、その中でも、都市計画がどのように作られるのかという点に焦点を当て、「近代都市史」を研究してきました。その際フィールドとして選んだのが、神戸でした。世界史的に見ても、日本と世界がぶつかる面白い時代です。

そこから展開して、新たに建物を建築する時や街への新たな介入を計画する時に、地域が育んできた来歴をどのように反映させたらいいのかを研究し、実際の設計活動を通して考えています。日本人は、土地に関して私権の主張が過剰であると言われています。プライベートの土地には、何を作ろうが関係ないだろうと。イギリスでは女王様の土地の上に建物を建てているという感覚があって、人の違ったようなことはしません。街の値打ちというのは、家が並んだ時にどう見えるか。自分勝手な人が増えると、街のブランド価値、資産価値が低下します。そういう人をコントロールする人が日本にはいません。海外であれば、教会が指摘する例もあり、それを制度化できないかというのが、最近の関心事です。地域の来歴を埋め込んだ街にしたいと考えています。

どうすれば制度化が可能になりますか。

小代特命講師:

「ふるさと納税」に興味を持っていて、それを基金にし活動していけないかと考えています。

たとえば、家屋建て替えの際に街のシンボルとなっている御影石の塀を取り壊す動きがあった場合、ふるさと納税を使って資金を集め、残していけないかというふうに。いま大学を巻き込みながら、電鉄会社と一緒になって、プロジェクトを始めようとしています。重要文化財にはなっていない身近な「地域遺産」と言われるものが、どんどん姿を消していく中、それを救済する道筋を提案できればと思います。高校生や大学生にも仲間に入って地域への愛着を持ってもらいたいですね。

街を細分化せず総合的に見る

なぜ、近代建築の研究から、街歩きや文化財保存の活動に移ったのですか。

小代特命講師:

研究を進める中で歴史的な建築が姿を消すなど歯がゆい思いをすることが多く、自分が現場に出て前例を作らないと変わらないと気が付き活動するようになりました。

研究分野が細分化され、各分野をどんどん突き詰めていく中で、建築、都市論の分野では研究を統合し、総合的に見ることも必要だと考えます。細分化し研究を進めると、捉えきれていない事象がたくさんあり、都市の全体像を評価する必要性を感じました。

2017年から始めた街歩きイベントは、9年目になります。研究成果を一般の人にも伝え、社会貢献の一つとしてやっています。年に10回程度計画し、旧居留地や北野の異人館、舞子の外国人別荘地などを巡っています。建築物などハードが街にあるだけでは、地域で積み上がってきた「まち」、建築、景観などの意味、設計者の意図がなかなか伝わりません。だから、それらの情報を整理し伝える街歩きや講演活動に携わっているのです。

小代薫特命講師(中央奥)と一緒に旧居留地を巡った街歩きイベント=神戸市内(NPO法人 Unknown Kobe提供)

大学建築は、一つのメディア

神戸大学にも歴史のある建築物が残っています。

小代特命講師:

神戸大学の校舎は、戦時体制に入る前に建設されたもので、大学建築と思えないくらいの豪華さです。一橋大学と同じくロマネスク様式が採用され、神ではなく人間主体のデザインが施されているのが象徴的です。東京大学や京都大学などの帝大系とは異なる路線で勝負しようとしているのが面白い。高さや垂直性を強調し荘厳さを表現する帝大系に対し、水平性の穏やかさや親しみやすさを強調しているのが神戸大学の建物と言えます。建築というのは、昔から一つの「メディア」だったわけで、大学の本質や中身を示しています。神戸大学の建築には、威厳ではなく海外に手を広げていくような、人間中心の校風が反映されています。六甲台キャンパスを構成する本館は、青い空と海とは対照的な色使いで、美しさが際立っています。出光佐三記念六甲台講堂も社会科学系図書館も、広い空間で採光し素晴らしいです。

本館
出光佐三記念六甲台講堂
社会科学系図書館

歴史ある神戸をアピール

 

人口減少が進む地域に福祉と産業振興の両立を目指し計画される地域拠点複合施設の意匠を検討する小代薫特命講師(小代特命講師提供)

神戸の街は、今後どうなればいいと考えますか。

小代特命講師:

外国人が旧居留地で取り組んだ街づくりは、今も学ぶところが多いと感じます。過去の居留地会議の議事録を紐解くと、どういう風にすれば市民が集まる街づくりになるのかがよくわかります。市民に情報公開?発信して、常に交流がある中で進めていくプロセスが大事です。神戸には、今でも新しいことに挑戦する市民社会の気風が残っています。

開港場ができた理由にもなりますが、神戸の海は水深が深く、背後に六甲山が広がり、山と海が近く高度差のある街です。今後は地勢的に恵まれた良さをどう生かしていくのか。そこを世界にどうアピールするのかが大事です。神戸を含む阪神間は住環境が非常に優れているので、世界に売り出して世界から再び注目されるようになれば、と考えています。居留地から始まった街の歴史や成り立ちを意識し、特長ある街であり続けてほしいと思います。

これからは、地域での生活を充実させる時代です。そうなった時、建築や街がどうあればいいのかを考えると、それぞれの来歴や固有性が活かされていないと決して長続きはしません。歴史や地域の研究を踏まえて、建築や街にオリジナリティーを発揮させることで、地域での生活が喜びや生きがいに満ちたものとなると確信しています。

小代薫特命講師 略歴

2005年、神戸大学工学部建設学科卒。07年3月、神戸大学大学院工学研究科修士課程修了。14年、神戸大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。14年から小代薫建築研究室主宰。15年、神戸大学経済経営研究所研究支援推進員、17年、神戸大学先端融合研究環未来世紀都市学研究ユニット構成員、18年、神戸大学計算社会科学研究センター?経済経営研究所特命講師。

研究者

SDGs

  • SDGs11